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狩野智宏|神代良明 東京画廊+BTAP

 はじめまして。

 こまめな更新はままなりませんが、展示の折々などの覚え書きをこちらに残していこうと思います。

 ではまず一発目。よろしくお願いします。

 東京画廊で初めての、ガラスを主素材とした展示をさせて頂く運びとなったのは、画廊主の山本さんと作家の狩野さんが表現における素材と人との関わりについて不断に問い、論を重ねて来られた故だと思う。  狩野さんは今こそ自然<じねん>を再認識すべきであるという強い想いで臨まれた。  これをズバッと表明することは、なにかを表そうとする立場としては案外なかなかに勇気のいることだと思うのだが、いまその姿勢に深く共鳴し、背中をググッと押されて僕はこれまで形にできなかった言葉をようやくと文字に起こしてみようと思うことができた。

 これまでアチコチで言ってきたこと、書いてきたことに嘘はないけれど、核心に触れることをどこかで躊躇ってきたことはここで白状します。  書いてみたらとても個人的な思い入れの形になってしまったのではあるが、作品ともども、どこかでじねんの普遍性に手が引っ掛かっていたらと願う。

Remaining composition のこり体

机に置きっぱなしにしていた蜜柑が黴びることなく茶色を帯びて萎んでいくのを、日々何気なく眺めていたことがあった。半年ほどしてそれはとうとう弾まないピンポン球のような硬い物体になったのだが、その静かな道のりを確かめて以来、立ち枯れた草木や、数多の困難を免れた後に干涸びて地面に転がっている虫をただ喪失の目で観ることはなくなった。その一方で、重なる施療を授かりながらのなか不本意に亡くなっていった父親を看取ったことで、人間にとってコトリと息を引き取ることがどうやら難しくなっているらしいことを教えられた。萎んでいった蜜柑は私にとって、それら気付きのアイコンだ。

萎むということは元々そこにあった気体や液体、もしかしたら時にはタマシイなどが離れていって一旦静的な地点に向かう現象で、その言葉の響きと共にどうにも虚しさを伴う。しかし私はそうして仮初めに留められたものの姿に根源的な構造の持つ強度を覚え、もの言わぬその存在をきっと相当に信頼している。

多孔質に発泡したガラスに熱を加えると自重によって潰れはじめ、あるいは蓄えていた気体を放出しながら萎んでいく。それは重力に逆らえず形を失い、互いの空隙を融かし合わせつつまた密な物体へと向かう道を辿る。私はこの自明な過程の狭間に、あの萎んだ蜜柑の強さの在処を見た。発泡ガラスを扱う根拠をそこに見出すことで、私はようやくこの地上に参加する足場を得たのだとひとり合点している。

物質は絶えずさまざまに動き続ける。ときにこれらは人や生き物によって精製・抽出され、しばし形に留める行為を伴うことで素材と呼ばれる。そうしてつくられたものの多くは大気に晒されながら休むことなくそれぞれの速度で変質していくのであるが、上手に歳を取ることが難しいガラス物体をつくればつくるほど、その行為自体が仮初めなことだという思いは強まるばかりである。それでも私は、萎んでいったガラスが遺していく痕跡を、能う限りそれそのものの構造体として取り出そうと考える矛盾した存在なのだ。

東京画廊+BTAP プレスリリース

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